読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

月面シネマ

映画をみて聴いて読むブログ

『 ショート・カッツ 』ロバート・アルトマン 監督とポール・トーマス・アンダーソン / 象徴だったり個性だったり

 ポール・トーマス・アンダーソンという監督は、ちょっと変わった人だ。映画『パンチドランク・ラブ』では、ハーモニウム二人の愛のハーモニウム。なんちゃって、がははは、というギャグ一本でラブストーリーを作っていたし、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』なんかはダジャレがタイトルになっている

 そんなPTA(ポール・トーマス・アンダーソン)の映画にはいつも、アルトマンの映画に流れてるのと同じ通奏低音が流れている。たとえばマグノリアが(本人も言ってる通り)『ショート・カッツ』にそっくりなのは、観た人みんなが感じるだろう。


www.rottentomatoes.com 日本語の予告編が見つかりませんでした。英語でよければロッテン・トマトでどうぞ

『ショート・カッツ』あらすじ

 〈プロローグ〉ロサンゼルスのとある住宅街。突如発生した害虫を駆除するべく、ヘリコプターの編隊が殺虫剤を散布する。〈EP1〉TVキャスターのハワード・フィニガン(ブルース・デイヴィソン)と妻アン(アンディ・マクドウェル)には、明日9歳になる息子のケイシーがいる。… [KINENOTE(キネマ旬報社) - ショート・カッツ] より


www.youtube.com YouTube - ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男 (予告編)

 『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』(公式サイト) というドキュメンタリー映画ではアルトマンの奥さんや様々な俳優錚々たる顔ぶれが監督としてのアルトマンについてコメントを出していて(みんなほんのちょびっとだけど)、彼の生涯と作品の背景を概観できるようになっている。

 アルトマンというと、自分はこの『ショート・カッツ』がいいなと思うんだけど、『M★A★S★H』や『ザ・プレイヤー』を思い浮かべる人も多いだろう。じゃあ、結局アルトマンらしさってなんだったんだろうね、というこのドキュメンタリーの最後でPTAポール・トーマス・アンダーソン)が客引きパンダみたいに出演してきて、アルトマンの映画といえば「ひらめき(インスピレーション)」だね、とコメントを残している。

 なるほど。アルトマンひらめきを得て映画を撮ったなら、PTAはそのひらめきインスピレーションを受けていたのかもしれない。

だって時は流れているんだもん

 『ショート・カッツ』(原題 :『Short Cuts』)はレイモンド・カーヴァー9つの短編小説ベースに作られた22人もの登場人物が織りなす群像劇だ。なんだか変てこな人たちおバカなことを(シリアステイストで)やるという映画だけど、時折ドラマありサスペンスっぽさありといった感じで、錯綜する物語の糸がアルトマンの職人的手腕でもって見事に紡がれ、一枚のタペストリが縫い上げられる。その中を飛び回っているのはメドフライと呼ばれる害虫*1、また、その害虫駆除用の撒布薬をロサンゼルにまきちらすヘリコプターなど。

 てんでバラバラな登場人物たちがどこかで繋がっていくような世界観はくらもちふさこの漫画のようだけど、この映画は登場人物ひとりひとりの物語が解決することでエンディングに向かっていくタイプのものじゃない。そこに流れているのは現実の時間だ。

 物語の時間現実の時間、映画にはいつもこの二つが流れている。退屈寂しい現実を忘れて映画を観ていたい時は誰にでもあるけれど、そんな時、ラブ・ストーリーを観たり、アクション映画を観たり、はたまたホラー映画を観たり、と、人は色んなジャンルから自分の好みに合った映画を観てカタルシスを得たりする。

 ばらばらな趣味好みをもとに一つの傾向を持った映画が作られ消費される。その根本にあるのは物語の時間軸に入り込みたいという欲望だ。

 だって現実はつまらないし、自分の好きな物語のなかにだけ生きていたい。そんなわたしたちにアルトマンは言う、映画もまた寂しいものなのだ、と。

 ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』を観てると、そんなアルトマンの映画が思い浮かぶ。『ホーリー・マウンテン』に(辛うじて)物語を見出しながら最後まで観た人はきっと肩透かしを食らってしまう。おれはホドロフスキーだ。あんたウェス・アンダーソンの映画を観てたと思ったんじゃないか、という具合に。だって最後の最後で「お前ら映画なんて観てないで現実に戻れ」と怒られてしまうんだもん。厳しいよ。でもね、こっちだってね。言い分がある。映画を観るなと言うために映画を作るなんてどういうこと? もう哲学だよ。わかんない*2

 そういう点でアルトマンはもっと優しい。彼の映画にはがある。いや、違う。アルトマンの映画には映画に対する愛があるというように見える。『M★A★S★H』や『ザ・プレイヤー』も、『ホーリー・マウンテン』のようにこれは映画ですよ、と自ら宣言する点では同じだけど、向いているベクトルが違う。“たしかにこれは映画だし現実じゃない。でも、それでいいじゃん。楽しかったよね、また観てね”、と。こんな感じ。ホーリー・マウンテン論理哲学ならアルトマンの映画哲学探究。君がそうなら僕はこう。左アッパーさ。

 まるで紙芝居をめくり終えたおじさんみたいにアルトマンは去っていく。映画は現実の代わりにはならないことを告げたうえで、なおかつそれでいいという。そして、その紙芝居の世界に自分の姿を見出した子供たちのなかでだけ、物語永遠に生きつづけられる。アルトマンにとって物語とは、カタルシス共感を得るためにあるものではなく、そんなふうな亡霊みたいなものだったのだ。

 映画の寂しさ、とは、こうした亡霊にどうしようもなく焦がれてしまった人たちの隣で現実の時間が流れていることだ。永遠に終わりがないなんてことはありえない漫画だったら結末が決まってなくてもいいし、連載漫画なんかにおいては結末は作者と読者のあいだに生まれる。だけど映画はそうじゃない。全部のシーンを撮り終え、編集が終わって、結末が決まっているからこそ公開することができる。だからこそ観客は二時間や三時間のあいだに物語意味を見出そうと焦ってしまって、本当に大事なものが見えなくなってしまう。

 アルトマンは物語的カタルシスに代わるなにか、を、映画を通じて観客と共有したかったんじゃないかと思うのだ。実際、そんなものを編み出せたならひらめきという他に何と呼べばいいだろう。

ポール・トーマス・アンダーソンと骸骨、象徴

 アプトン・シンクレアの小説、『石油!』をもとに作られたゼア・ウィル・ビー・ブラッドという映画はPTAによって(追悼の意を込め)アルトマンに捧げられている。

 世界三大映画祭全てで最高賞を受賞したアルトマンと同じようにPTAも世界三大映画祭全てで監督賞を受賞しているし*3、PTAが生まれた1970年はアルトマンの出世作である『M★A★S★H』が公開された年でもある。これらは単なる偶然だろうか? わたしは偶然だと信じたい。(『マグノリア』観てね)だけど、PTAがアルトマンから受けた影響はその映画の端々に見出せる。

 事実、『マグノリア』以前のPTA作品はアルトマン的群像劇再構築を試みた結果だとも言える。だって、『ショート・カッツ』でもそれが起こったのだ。映画のなかの登場人物たちがわたしたちと同じ現実を共有していることを伝えるために。それ時間そのもののことだしマグノリアではエイミー・マンの歌詞世界を入れ子に、まさしく時間がテーマとして扱われている。カエルの雨 *4も、地震も、わたしたちが時間という一つの現実を共有する一種の共同体のようなものだ*5、ということを訴えている。

 そして、ポール・トーマス・アンダーソン一番の特徴といえば象徴を通じて物語を伝えるという点だ。たとえばパンチドランク・ラブではハーモニウムがそうした象徴の一つとなっているし、彼の他の映画もそう*6。もしPTAの映画を観て訳がわからないという人がいるなら、これらの象徴を読み取れなかったからなんだろう(でもそれは仕方ないんだけど)。

www.youtube.com YouTube - パンチドランク・ラブ(予告編)

 『パンチドランク・ラブ』という映画においては赤色エミリー・ワトソン演じるリナという女性をあらわし、青色アダム・サンドラー演じるバリー・イーガンという主人公を意味している*7。これだけでもうあれなんだけど、ここからがすごい

 映画の冒頭で赤色の車がクラッシュするのはリナバリー一目惚れしたことを表すメタファーであり、そのすぐ後に置いていかれるハーモニウムが意味しているのはだ。ちなみに、バリーリナという女性を以前から知っているようで知らないような設定になっていて、バリーが“ピアノ”と言い間違えたのをリナが“ハーモニウム”と訂正することで、あの楽器がリナのものであり、かつ、リナバリーに恋していることがバリーにもわかって、そしてハーモニウムは言葉通りハーモニーを生む楽器だから最後のシーンは二人で愛のハーモニーを奏で始めましょうという意味が込められていてあれはこうでと、まるでオタクの考えたマイルールみたいなのだ。(本当にこんな映画なんだもんっ)

 こんなやり方は変だ。絵画だったら図像学とかがあるから骸骨の絵が描かれてたら、こりゃバニタス画だな。などというのがわかるし、象徴だけを使ってナラティブなものを(言葉を使わずに)理解させることができる。が、それはそれぞれの象徴がなにを意味しているのかを受容する側の人たちが知っているからこそできることだ。映画の主流は現在もドラマの共有にあるし、難しい科学技術用語なんかを映画に登場させる場合にも、“これはこういう意味なんですよ”と注釈をつけるのが決まりみたいになっている。でもPTAはそんなことしない。

 彼が撮りたいのは物語ドラマではなく、登場人物たちの個性だからだ。だからドラマのように全員が一つのものを同時に共有できる映画ではなく、趣味や好みもバラバラな観客がそれぞれの順番で理解していく映画ができる。個性を撮るからこそ、ドラマであってドラマではない、本当のドラマが生まれる。

 たとえば、バリーがあんなふうにハーモニウムを修理して大切にしてるのは、誰かわからない人から自分に向けられているを大事にしようとしていることの暗喩だし、リナに嫌われることを恐れたバリーハーモニウムを両手で担いで彼女の家に向かうシーンも絶対になくてはならない。あのハーモニウムが彼女の持ち物でありであることを知った以上、もしリナのことを傷つけてしまったならバリーはそれを彼女に返さなくてはならないから。そして、彼女のを自分がまだ大事に持っていること、絶対に捨てたりしないことを表明するためでもあるからだ。バリーがどんなふうにハーモニウムを扱っているかで彼のリナに対する感情が分かる。そしてこれが最も切実な恋愛劇の一種であることも。

 でも、PTAはそれをみんなに理解されなくてもいいのだろう。だってロバート・アルトマンポール・トーマス・アンダーソンの映画に共通しているのは、ばらばらな人たちが(解決できないまま)抱えているわたしというそれぞれの個性を尊重するという考え方で、物語であって物語ではない、という彼ら独特の価値観個性なのだから。

*1:チチュウカイミバエのこと。ちなみにミバエの精子の全長はあらゆる動物のなかで最も長く、さらに毒を持っているため、受精したメスのミバエはそれによって死にいたるらしい。(えげつねえ虫だ)

*2:ちなみに『ホドロフスキーのDUNE』は観たいけどまだ観れてません。

*3:パルムドール金獅子賞は受賞してないんですね

*4:PTA、出エジプト記好きゃなあ

*5:つまりPTAの主題である疑似家族という構図にあてはめると、カエルの雨という怪奇現象を一緒に体験したあの人たちは家族みたいなもんだということを言ってるわけなんでしょうな。だから地球規模で疑似家族をやってる

*6:ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』についても書いたんだけど破茶滅茶に長くなるので『ザ・マスター』のときに一緒に載せます

*7:これ見たとき、すっごい古いやり方だなあと思ったら『女は女である』なんですね