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月面シネマ

映画をみて聴いて読むブログ

『ミツバチのささやき』 監督 : ビクトル・エリセ / 子供たちとフランケンシュタイン、ドラキュラ

映画 1970年代

 “いなくなってしまった人にまた会いたい“、と思ったことはないだろうか? どこに行ったんだろう。本当は、“いなくなったのは自分のほう"なんじゃないだろうか、と。この映画は言う。いや、違うきっとまた会える。きっと、“名前を呼ぶだけであの人たちに会えるのだ"、と。


www.youtube.com YouTube - ミツバチのささやき(予告編)

あらすじ

 1940年頃、スペイン中部のカスティーリャ高原の小さな村オジュエロスに一台のトラックが入っていく。移動巡回映写のトラックで、映画は「フランケンシュタイン」。喜ぶ子供たちの中にアナ(アナ・トレント)と姉のイザベル(イザベル・テリェリア)がいた。その頃父のフェルナンド(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)は、養蜂場で、ミツバチの巣箱を点検する作業をしている。
[KINENOTE(キネマ旬報社) - ミツバチのささやき] より

 この映画の監督、ビクトル・エリセという人は『エル・スール』や『割れたガラス』といった、のちの彼の作品を観てもわかるように、過去喪失といった言葉で語られる監督なのだけど、それと同時に、我々のなかで決して失われることのない希望を描く監督でもある。初の長編作品として1971年に発表された『ミツバチのささやき』も舞台を1940年のスペインに据え、当時スペインで“内戦によって失われてしまった人たち“や、“"というものに祈りを捧げている。

戦争とフランケンシュタイン、ドラキュラ

 美しいハチミツ色の光、まだ幼いアナイザベルたちの純真無垢なかわいさ、なんでかわかんないけど蜂の生態観察みたいなことしてる二人の父、フェルナンド

 町々を巡回して映画を上映するおっちゃんが持ってきた『フランケンシュタイン』 を町民で寄り合って鑑賞したり、静かで穏やかな空気漂う『ミツバチのささやき』だけれど(もう本当にかわいいし綺麗だから観て)、これは戦争とトラウマについての映画でもある。

 原題の『El espíritu de la colmena』は“ミツバチの巣の精霊”という意味らしく、『ミツバチのささやき』もいい響きだけど、やっぱり原題のほうが正確に内容を表している。ミツバチの巣というのはスペインのこと。ミツバチとはスペイン国民のことを意味している。そして“精霊”は死んでしまった怪物のことを表していて、これは、わかりやすく言えばスペイン内戦によって死んでしまった人たち天国にいる人のことだ。

 でも、そういう難しいことを考えなくても観てるだけで充分たのしいのが『ミツバチのささやき』という映画のすごいところ。主演のアナ・トレントかわいさの化身みたいだし永遠に見てられる。Amazonでこの映画を検索すると新潮社から出てる『アナ・トレントの鞄』というニッチ本がサジェストされるくらい、とにかくもう凄いのだ。かわいさが。黄色いガラスを透かした光があんなにも綺麗だとはこの映画を観ないと気付かないだろう。

 そして、ミツバチのささやきにはフランケンシュタインが登場する。みんなが知ってるあのフランケンシュタインのことで、1800年代初頭に発表されたイギリスの小説をもとに作られた1931年映画、そしてフランケンシュタイン博士が生み出したあの怪物のことだ(あの怪物自体はフランケンシュタインという名前ではないんですって)。

 フランケンシュタインに出てくる、あの怪物は、そのまま、『ミツバチのささやき』でも、死体からつくられた人造人間のことを意味している。つまり、もう死んでしまっているのに動いている人空っぽなのに動いている人のこと、スペイン内戦によって作り変えられてしまった人たちを意味している。アナが井戸の近くにある廃屋で友達になる兵士が、この怪物だ。

 この、怪物内戦によって作り変えられてしまった人たち精霊=死んでしまった怪物という図式の上に、ミツバチのささやきはできている。

 たとえばクリント・イーストウッドミスティック・リバーという映画では、子供の頃に二人組の男に誘拐されたデイブという男が登場するのだけど、このデイブという男は誘拐され、虐待された体験吸血鬼に血を吸われる、という行為になぞらえる。そして吸血鬼に血を吸われたのだから、自分も吸血鬼になってしまうのではないかという恐怖に襲われてしまう。

 人はトラウマによって人間が作り変えられる。ミツバチのささやきは内戦というトラウマによって怪物となってしまった人を登場させることでスペイン内戦という悲劇を描き、それにつづく悲劇として、アナが友達になった怪物(兵士)が殺されてしまうという出来事が起こる。そして、それが新たなトラウマとなってアナは喋れなくなる。

 どこまでもつづく“悲劇”や“トラウマ”の連鎖から逃れるために、人はどうすればいいのだろうか。エリセは言う。「彼らはいなくなってしまったわけじゃなくて精霊のようなものなのだから、会いたくなったら話しかければいいのだ」と。そして、アナは夜の窓辺に立ち、その精霊に呼びかける。「わたしはアナです。わたしはアナです」と。

わたしの愛しい人間嫌いさんへ

 スペイン内戦1936年から1939年までのあいだスペイン国内で起こった軍事クーデターによる内戦だ。いま日本で内戦という言葉を聞いてもピンと来る人は少ないだろうけど(というか自分もわかんない)、近現代、そして現代においても至るところで内戦は起こっている。特にコンゴやチェチェンリビアにおける内戦紛争はまだ耳新しいものだし、遡ればアメリカの南北戦争もそうだ*1

 1910年にはメキシコ革命が起こった。現代アメリカの巨匠コーマック・マッカーシーは、スペインで起こった内戦はそっくりそのまま、このメキシコ革命の悲劇の焼き回しである、と書いている。ちょっと引用します。

 (略)…。わたしたちの一族はこの国ではスペイン人と考えられていますが、スペイン人の狂気もクレオールの狂気もたいしたちがいはありません。 スペインで起こった例の政治的悲劇はその二十年前にそっくりそのままメキシコで予行演習されたのです。わかるひとにはそれがわかります。見かけの上で同じものは何ひとつありませんが全て同じなのです。スペイン人の心のなかには自由への強い憧れがあるけれど自分自身の自由しか考えない。真実と名誉をあらゆる形でおおいに愛するけれど実質を伴わない。そして何事であれ血が流されなければ証明されたことにならないと深く確信している。処女性も、牡牛の値打ちも、男らしさも。究極的には神もです。
『すべての美しい馬』 - コーマック・マッカーシー 著 / 黒原敏行 訳 より

 自分にとってのスペインのイメージといえば、ベラスケススルバランピカソサルヴァドール・ダリアントニオ・ロペスなど、絵画芸術の国、という感じだった*2。そしてこうした優れた絵画の表現方法の流れを受けついだのがエリセや他のスペイン映画なのだけど、彼らがあんまり血の気が多くないせいだろうか、スペインの歴史と国民性についてあんまり考えなかった。

 言われてみればスペインといえばスペイン帝国闘牛だし、ゴヤだっておどろおどろしい絵を描いてる。実はスペイン人には本当は、血を好む性質があって、それがメキシコ独立革命以降も脈々と受け継がれ、クレオールに宿り、メキシコという国を形作っているのかもしれないし、遠くはシウダー・フアレスで起こっているようなことにも関係があるのかも知れない*3

 というのは無責任な放言に過ぎないけど、ただ戦争や紛争というものの背後にはいつも死体の匂いに惹きつけられる人がいるのは本当だ。エリセの映画はそういった、血を好む性質と対極にある。

 彼の映画によく登場するモチーフは昔の恋人に思いを馳せる人だ。『ミツバチのささやき』ではテレサという母が*4、そして、これまたすごい傑作でキアロスクーロみたな陰影法を使った冒頭から始まる『エル・スール』ではエストレーリャという少女の父アグスティンがその役割を演じる。彼らはいつも“過去“に向かって手紙を書いては“"という時間に縛り付けられている。

 『割れたガラス』でもリオ・ヴィゼラ紡績繊維工場で働いていた人たちにインタビューするというドキュメンタリーの手法をもちいて、全く別々の、それぞれの記憶、というものを透かして(まさしく割れたガラスを透かして見るように)見えてくる、リオ・ヴィゼラ紡績繊維工場というものを現在に蘇らせようとしようとしていたし*5、エリセの映画が過去と現在の繋がり、そして、その繋がりのなかにある希望を撮ろうとしているのは間違いない。

 『ミツバチのささやき』では少女アナがまさしくその希望だ。暴力によって生まれた国や政府が、その暴力を次世代に引き継いでしまうという悲劇、暴力の連鎖に陥らないように、と。無垢な少女アナを通して語りかける。夜の窓辺でお祈りのように自分の名前を唱えるアナは、そうすれば死んでしまった兵士また会えるのだと思っている。そして、きっと本当に会えるはずなのだ。それが未来という希望なのだから。


*1:詳しい人ぶって書いてますが詳しくはありません。

*2:レンブラントフェルメールもヘラルト・ダウもオランダだし、ポップアートはアメリカだけど。

*3:メキシコとアメリカの国境付近にはそれって現実かよ、と耳を疑うような、むごたらしい死に方の全てがそこにある。とにかく麻薬カルテルがやばい。

*4:この人は本当にわかりにくいんじゃよ。『エル・スール』だと尺を取ってくれてるぶん、わかりやすいんだけど。

*5:ちなみに、これを観て『予告された殺人の記録』というガルシア・マルケスの小説(ラテンアメリカのやつ)を思い出してしまった。マルケスのこの小説にも、過去に一日だけ夫だった男に何十年も手紙を出しつづける女性が登場して(結局それは叶うんだけど)、同じインタビュー方式を使ってる…、だからなんだって訳でもないんですけど。