月面シネマ

映画をみて聴いて読むブログ

『ロリータ』監督 : スタンリー・キューブリック / 映画にできないものと言葉にできないもの

 ロリータ、わたしの。一生の明かり、秘所の燠(お)き火。わたしの罪、わたしの魂そのものの。ロ・リー・タ、とは - 口蓋を散歩する舌の先っぽが三歩だけスキップする、その三歩目に、歯の裏側にいる。ロ。リー。タ。…(中略)…。
 ロリータには前任者がいたか?いたとも、存在した。それは間違いない。実のところ、わたしが愛しさえしなければ、ロリータは存在しなかったのかも、あの夏、最初に彼女となる女の子のことを。海辺の公国で。おっと、いつのことか?およそあの夏からロリータが生まれる迄の年数、それがあの夏のわたしの年齢だった。こねくり回した散文体で殺人犯めが歓待いたします、お任せください。
 紳士淑女の陪審員方、証拠としてまず最初にお見せするものはかつて熾天使たち、つまり騙されたものたち、高貴な翼を持つ単細胞、そう熾天使たちが、妬んだものだ。この痛ましい荊の絡みもつれにご注目を。

[『Lolita』- 著 : vladimir Nabokov] より / 訳 : わたし



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 あらすじ

 霧の深い日だった。作家のクィルティ(ピーター・セーラーズ)が、ハンバート(ジェームズ・メースン)のピストルの乱射を浴びて死んだ。--ハンバートは数年前、パリからアメリカに渡り、フランス詩の翻訳で好評を得ていた。夏を過ごそうと田舎町にやって来た彼は、シャーロット夫人(シェリー・ウィンタース)の家に下宿した。ハンバートは一目でこの家の娘、ロリータ(スー・リオン)の未熟な妖しい美しさに心を奪われ、夫人はハンバートのとりこになった。  [KINENOTE(キネマ旬報社) - ロリータ] より   

 なんというか映画版の『ロリータ』には2種類あってキューブリックのほうしか観てないのだけど、いまどきこの映画の話をする人はナボコフキューブリック関係で観た人、そして本物の人ということになるのだろうし、だからキューブリックの『ロリータ』観た?どう思う?と訊かれれば、一言。ちょー気持ちいい、なんも言えねぇ

文章にできないものを書くために小説を書くということ

 記事冒頭に挙げたのはウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の第1章部分をちょっと訳してみたものだ*1ナボコフの小説はよく、翻訳するのが難しいと言われるけれど、映画化するのもきっと難しい

 『ロリータ』というこの小説もそうだ。バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』やスティーヴン・キングの『シャイニング』を見事映画化してみせたキューブリックだけど、この『ロリータ』について話している人はあんまり見かけない。なぜだろう。

 『ロリータ』という小説は、ハンバート・ハンバートという極めて理知的なセックスマシーンが、自身を閉じ込める性癖というロリータ)を描き出すことをテーマとし、自伝的形式を借りて書かれた1955年の小説だ*2。そして、これ自体はいまではもう、よくある話になってしまった。

 …(略)、科学者たちによって何ヶ月も宥めかされたその猿が、動物としては初めて木炭画を描いてみせたというのだ。そして、そこには哀れな動物を閉じ込める鉄格子の絵が描かれていた。
[『Lolita』収録 『On a Book Entitled Lolita』 - 著 : vladimir Nabokov] より / 訳 : わたし

 そういう陳腐化してしまったテーマであるにも関わらず*3、小説『ロリータ』は広く読み継がれているし、 読みものとしての面白さも失われていない。その理由はこの小説のなかで展開されるドラマ的要素よりもまず、表現の手法が優れているからなのだろう。“小説“という、“文字”を使った媒体でなければ難しい表現方法、これが映画化できない。

 そして、映画化しにくいのはなにも『ロリータ』だけじゃない。最近の文学は特にそういう傾向を持っている。デヴィッド・クローネンバーグによって映画化された作品『コズモポリス』や、先日『ネヴァー・エヴァー』(東京国際映画祭サイト)の邦題で公開された映画の原作者でもある、アメリカの作家ドン・デリーロの小説もそうだ。


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 特に『ネヴァー・エヴァ』の原作『ザ・ボディ・アーティスト』文章にしかできない表現方法を使っていると思うので、ちょっとご紹介を*4

 物語の枠組みはこう、中年の映画監督であるジョン・レイとその妻でボディ・アーティストローレン・ハートケは、ある朝、家のなかにある不審な物音について話し合っていた。

 そして、レイが仕事に出かけるのを見送った、その日、彼が元妻の家拳銃自殺したことをハートケは知る。喪失感に打ちのめされる彼女の前に現れたのは、屋根裏に隠れて暮らしていた謎の青年*5だった。そして、その彼がレイ同じ声同じ調子で、レイがかつて語ったことを語り出して…、というのが『ザ・ボディ・アーティスト』という小説で起こる出来事であり、こうした出来事について語ってもこの小説については何も語れない

 というのはこの小説があれ、これ、それ、何、だからあれ、ああこれね、いや違う、あれだってばというものを語るために書かれた小説だからだ。

 たとえばレイが自殺する日の朝、二人はいつもと同じように、キッチンにいて、夫婦会話するのだけど、もし自分のに、「それ取ってよ」と言われれば取ってあげるだろう。でも、それってなんなんだ、というのがこの小説のテーマだ。 普段何気なくあれ、それ、これといった言葉で会話をしている二人が本当の意味で指し示していたもの

 ローレン・ハートケそれがなんなのかを知っているつもりでいた。たとえばそれトースターのことだったり、オレンジジュースだったりそういうものなのだろうと彼女は考えていた。二人のあいだではそれが通じ合っているものだと思っていた。でもレイ自殺によってそれが失われてしまう。こうした悲劇を、デリーロは世界が起こるというふうに表現するのだけど(これがまたカックイイんだ)、以下引用

 時は流れている気がする。偶然にも世界は起こり、一瞬、また一瞬のなかへと広がり、そしてあなたは自らの巣にぺしゃんこになった蜘蛛を見る。その入り江には光の素早さ、事物が正確に縁取られているという感じ、それとさざ波に走る光沢の縞がある。嵐のあとの日差しの強くよく晴れた日に、木々から落ちたほんの小さな葉っぱでさえ自意識に刺し貫かれる、そんな日に、あなたはより確かに自分が何者であるかを知る。
[『The Body Artist』- 著 : Don Delillo] より / 訳 : わたし

 以降、この小説で起こる物語は読者の前に “世界が起こる” という現象を展開するための入れ子でしかない。

小説という演奏

 音楽が鳴りやめば、そこになにが残るだろう。現代小説のなかには、文学というよりも音楽と近しい関係にあるものがある。『ロリータ』という小説も、そうした系譜に連なるものだ。それは読んでいるあいだにだけ立ちのぼってくるものであり、本を閉じたときには演奏がやむ。

 そして、小説がひとつの演奏であるなら、その小説で起きる出来事とはその演奏を可能にしている楽譜のようなものだ。できのよい演奏があればできの悪い演奏もあり、できの悪い楽譜もあればできのよい楽譜もある、というように。

 でも、いま現在、小説を映画化するというと、この出来事の部分だけを移植するのが主流になっている。キューブリック『ロリータ』は、出来事の部分は見事に映画化できたかも知れないけれど、もう『ロリータ』のなかで起こる出来事は消費しつくされてしまっている。

 もし『ロリータ』ドラマ的魅力ロリコンが少女をレロレロします)だけを抽出して現代の『ロリータ』を作ろうとするなら、もっと別の映画になるだろう*6

 でも、いまの時代に『ロリータ』を読むような人は、そういう要請で読むわけじゃなく(聖典(Wikipedia)みたいにはなってるみたいだけど)、むしろお勉強の一環として読み始めるのだろうし、ドラマ的魅力よりも読んでいるあいだに起きる現象*7に価値を置いた『ロリータ』はそもそも映像にする意味があるのかも微妙になってしまった(それに本物の人はあんなに悲惨だと悲しくなるのでは)。

 映画というのは、映像を使って映像にできないものを表現しようする試みでもあるし、現代小説もまた文章を使って文章にできないものを表現している(デリーロなんかはもう、文字を使ったアートを作ろうとしているのがすごくわかる)。これらは単純なやり方で他の媒体に移植することが難しいし、昔は映画の方が直接的にイメージを得られる分、小説より有利であるという意見を聞いたりしたけど、別に全然そんなことない

 ホセ・ルイス・ゲリンが現代の映画では作り手よりも受け手のほうが重要な役割を担っているというふうに言っていたけど(ググったらインタビュー出てきた)、本当にそうだ。映画小説がドラマや文学から離れてアートに近づけば近づくほど、それを観たり読んだりする側の責任が大きくなってくる。

 そんなおゲージュツなんかにおれは興味ないという人もいるかも知れないし、たしかに理解できなくてもなにも悪くないけど、それだけじゃない。小説であれ、映画であれ、重要な芸術作品というのは最も切実なものをわたしたちに投げかけてくる。それをしっかりと受け取ることはすごく大事なことだと思うのだ。

 いま、わたしはオーロクスや天使たちについて考える、発色しつづける絵の具の秘密、予言的なソネット、芸術という避難場所。そしてこれこそ、唯一、わたしとお前が共有できる永遠の命なのだろう、ロリータよ。
 [『Lolita』- 著 : vladimir Nabokov] より / 訳 : わたし


*1:いま手元に若島版も大久保版もないのです。だから頑張って訳したのを載せました。

*2:読む前までナボコフロリコンなんだと思ってました。石を投げないでください。

*3:これをよくある話に(ロリコンという言葉を生み出したり)したのが、まずすごいのだけど…。

*4:映画は観れてないんだけど、絶対に映画化はむずかしいだろうし、『ムード・インディゴ』みたいに全くの別物になってるはず。だからこそ楽しみなんだけど。

*5:障がいがあるように描かれているのだけど、それがなんなのかはわからない

*6:いまTSUTAYAでちょうど『エコール』借りてきてるので書き終えたら観ます

*7:たとえば「牛乳の色をした月の光がおじさんにこぼれ落ちている」というような文章だったら牛乳がおじさんにこぼれる様子と月の光がおじさんに降り注いでいる両方のイメージがパッと頭に浮かぶ。そういうダブルイメージだったり色々あるのだけど文字数。