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月面シネマ

映画をみて聴いて読むブログ

『ザ・マスター』 監督 : ポール・トーマス・アンダーソン / 戦争とアイデンティティ

映画 2010年代

 戦争が終わるとなにが始まる? わたしたちの生きる、この日常。でも、兵士が戻ることのできる日常などどこにあるのだろう?

 映画『ザ・マスター』はビグローの『ハート・ロッカー』と同じく、“戦争"と“アイデンティティの喪失"テーマとしているのだけど、『ハート・ロッカー』の兵士が“戦場"“日常"の代替品としたのに対し、ホアキン・フェニックス演じるフレディ・クエルは、“日常"のなかに“戦場"を見出さざるを得なくなった男だ。

 第二次世界大戦終結し、海軍の兵役を終えたフレディには戻るべき日常がない。彼はかつての自分の“居場所"戦争によって失い、代わりに“海兵"であるというアイデンティティを与えられたのだ。

 戻るべき“日常"がないフレディにとっては、みんなが“日常"とするこの世界においてひとり“戦争"を繰り返す他にない。だって、それ以外にもう彼が彼であることなどできないのだ。海兵としてしか存在できないなら、海兵でありつづけるために戦争をしなくてはならない。

 たとえばカメラマンの仕事に就いても、自分が得ることのできなかった生活を手にしている客に乱暴を働き、行き当たりばったりに女性と関係を持ち、また別の職場でも問題を起こす。

 そんなフレディはある夜、酒に酔っ払ってたまたま近くにあった豪華客船に忍び込むのだけど、そこでフィリップ・シーモア・ホフマン演じるマスターと呼ばれる新興宗教教祖と出会う。君は何者で、どうしてこの船に乗り込んだんだ、と尋ねるマスターフレディは応えて言う、おれは海兵だった、この船はあんたの物なのか?

 するとマスターは答える。そう、私はこの船の指揮官(船長)だ(I’m it’s Commander, yes)、と。


www.youtube.com YouTube - ザ・マスター(予告編)

 あらすじ

 第二次世界大戦末期。海軍勤務のフレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)は、ビーチで酒に溺れ憂さ晴らしをしていた。やがて日本の敗北宣言によって太平洋戦争は終結。だが戦時中に作り出した自前のカクテルにハマり、フレディはアルコール依存から抜け出せず、酒を片手にカリフォルニアを放浪しては滞留地で問題を起こす毎日だった。ある日、彼はたまたま目についた婚礼パーティの準備をする船に密航、その船で結婚式を司る男と面会する。
[KINENOTE(キネマ旬報社) - ザ・マスター] より

 ポール・トーマス・アンダーソンについては前にも書いたのだけど、たぶん、この人あんまり自己主張しない人なんだろう(かわいい照れ屋さん)。この映画『ザ・マスター』でも、上に書いたようなさりげないやり取りのなかに重要な部分を詰め込んで、それを説明したりはしない。

 つまり、この映画は昔の恋人戦争で離れ離れになり、“海兵"という立場だけを残され戦争からも置き去りにされたフレディ“ザ・コーズ”という新興宗教の教祖と出会い、そして最初にあったその時、「おれは指揮官なんだ」(フレディにとっては海軍にいた頃の指揮官に代わる新しい指揮官だ)、とマスターに言われたシーンが鍵になっている*1

 だからフレディがあの新興宗教に協力するのは、指揮官であるマスターがたまたま宗教をやっていたからなのだ。フレディコーズ教義なんかに全然興味ないくせに「おめえらインチキじゃん」と言ってきた男をぶん殴ったりするのだけど、それは自分の上官であるマスターをディスってきたことに対する報復である。

 そんなふうに映画の中盤までフレディ“コーズの信仰者"としてではなく、“部下"としてマスターに付き従っている(そして、物語の中盤では遂に“海兵"であることをやめて“コーズの信徒"に生まれ変わろうとするのだが…)。

 こうした指揮官兵士というホモソーシャル“宗教"という戦場に当てはめた構図が、最後らへんの「プロシア軍から逃れた気球は二つだけ、君と一緒に中国行きのボートに乗りたいな」、はぁと。みたいな、なにを言っているんだこいつはという展開に繋がっていて…と、(あとで書きます)。

ポール・トーマス・アンダーソンと宗教

 まず、この『ザ・マスター』はサイエントロジーという実在の宗教をモチーフにしていて、そのことで公開前から諸々の心配を寄せられていたらしい。たとえばPTAポール・トーマス・アンダーソン)がカルト批判をするんじゃないか、それでサイエントロジー側から圧力がかかるんじゃないかとか。

 でも、そんなことはないだろうというのは観る前から分かってました。えへへ。だってPTAはそんなにオレだオレだオレだのゴリ押しをやらない人だし、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でも宗教に対して非常に同情的な立場を取っていた。

 彼の宗教に対する基本姿勢は、“中立的"でもなく“懐疑的"でもなく“同情的”なのだ。PTAが敢えてわかりやすく作っていないせいも多いのだけど『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』が宗教批判をやっている映画だと思ったなら、それは誤解だ。

 アルトマンの映画とは違った印象の映画を撮り始めたPTAのひとつの転換期であろうゼア・ウィル・ビー・ブラッドのなかで、ダニエル・デイ=ルイス演じる主人公が象徴していたのはドラキュラ伯爵だそうだ。たぶん観た人みんな、このことに気づかなかったんじゃないだろうか(まあ自分も余裕で気づかなかったよね、はぁと)。

 そもそもゼア・ウィル・ビー・ブラッドというタイトルは、“いずれ血縁関係になる”という意味と、出エジプト記の”いずれ血に変わる*2という言葉を引っ掛けたダジャレなんだけど、もうこのタイトルだけでいつもと同じように疑似家族テーマにした映画なのね、という感じはする(本当にそうだし)。だけど、プレインビューなにがしたい人なのか知ってないと、この映画の意味はよく分からない。

 彼はドラキュラ伯爵だ。映画の途中、プレインビュー偽物の弟に言い放つ「おれは人間嫌いやし金持ちなったら引きこもりになるねん」 という言葉。まさしくこの言葉が全てを語っている。

 つまり、プレインビュー家族という親密な関係に流れている血の絆を吸いつづけなければ生きていけない人なのだ。自分の子ではない孤児を育て、その子を商売に役立てようとしては、いつの間にか本当の子供のように思えてきたりして、でも、その子の耳が聴こえなくなったとたん縁を切ったり、罪悪感をチクチク刺してくるポール・ダノ演じる似非宗教家赦しを乞うふりをして見せたり、いきなりやってきたいかにもな息子の代わりにしたり。

 というものを遠ざけたがっているようで家族というものを強烈に欲している。でも、プレインビューは人間関係を構築しても破壊するしかない。なぜなら彼が目標している成功(隠遁生活)とは、人間関係の清算と全く同じ意味だからだ。そして、彼は吸血鬼なのだ。ミルクシェーキをちゅーちゅー吸ってくる奴なのだ。本当の家族になってしまうと、そこに流れているを吸わなくてはならなくなる。

 だからこそ、映画の最後でプレインビューが発する “終わっちまった(I’m Finished)” という言葉には、自分が目標としてきた人間関係の清算を達成できた、という意味と、それゆえに彼がずっと欲してきた家族という絆永遠に失われてしまった、という二つの意味が込められている(ちょっと待って)。

 だってそんなふうに見えないように撮ってるから自分もわからなかったんだけど。要するに、自分の利益だけを考えて洗礼を受けていたように見えるプレインビューが、あのとき本当にイーライ・サンデーから与えられた赦しにすがっていたのだ。だからこそ「神などいないと言え。おれは偽の預言者だともっと大きな声で」などとせまってみせる。

 もともと宗教に対してはなんとも思ってなかったように見えるプレインビューが、実はずっと、あの時から最後まで、本物の赦しを求めていたのだ。だからこそイーライ・サンデーやあの教会帰属意識を持っている。見るからに胡散臭いあのポール・ダノ(似非宗教家)でさえプレインビューにとっての家族となっていたのだ(ポール・ダノ自体は胡散臭くありません)。

 そして、それがPTA宗教の距離感でもある。『ハード・エイト』、『ブギー・ナイツ』からずっと同じものを撮りつづけてきたPTAだけど、彼にとってはポルノ業界カルトカエルの雨という怪奇現象を一緒に体験した人々も等しく同じ、家族同様の人たちなのだ。神さまを信じることができなくても、神さまにすがる人たちの切実さにどうしようもなく同情している、それがポール・トーマス・アンダーソンだ。

 だから『ザ・マスター』が(たとえ、それがカルトでも)、宗教を批判するための映画であるはずがないのですな(ちょっと長くなっちゃった、カフェオレ飲んで音楽聴こ)。

オルタナティブなこの感じ

 ヒップな映画をマッシュでアップする人、ポール・トーマス・アンダーソンのことを考える時、同時にクエンティン・タランティーノのことが思い浮かぶ。そして、タランティーノはともかくPTAにはすごいオルタナティブっぽさ、を感じる*3

 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も『ザ・マスター』も、内容的にはジャック・ニコルソンが主演をやっててもおかしくないくらいアメリカン・ニューシネマな話なのに(主役がウィスキー飲んでニッニッニッとか言い出してもおかしくない)、ちゃんといまの映画っぽさがあるのはそういう時代感を捉えているからなのだろうと思う。

 オルタナティブの特徴は、指向性がないことだとか、両義的なことだと自分は考えていて*4PTAはまさにそんな両義的映画監督だ。『ザ・マスター』はよい映画だけれど、その素晴らしさはみんなで共有して楽しめるタイプのものではないし、たぶんゲイの方からしても共感しやすいとは言いにくい方法を使って男同士の絆を描いている。

 映画の終盤、フレディ・クエルコーズの信仰者の一人となることを突如投げ出し、戦争の前の自分を見つめ直すために盗んだバイクで走りだし、かつての恋人のもとを訪ねる。そして、その恋人は全然違う人と結婚してしまっている。そりゃそうだ、仕方ない。きみに幸せを、と。フレディ

 それから時間が流れたある日(いつなのかはわからない)。フレディは夢のなかのカルテジアン劇場みたいなとこで映画を観ているのだけど、その時、唐突にマスターから電話がかかってくる。「君と僕がどうしてあんな出会い方をしたのかがわかったんだ」、と。そしてフレディコーズを訪ねる。

 なんで今更やってきたのかわかんなくてびっくりするマスター(これもそりゃそうだ)たちを尻目に、「あの時のことがわかったんだろ」と尋ねるフレディ

 彼がずっとわからなかったことというのは、どうして自分が自分なのかということだ。どうして最初に海兵だと名乗ったのか、どうしてマスターおれは船長だと名乗ったのか、そもそもどうして二人にはそういうアイデンティティが与えられたのか。

 マスターがいつも奥さんのいいなりに見えていた理由もここにある。マスター自身が、教祖であるという自分のアイデンティティの理由がわかっていなかったのだ。わかっていなかったのだけど、彼はこんなふうに答える。「プロシア軍から逃れた気球は二つだけなんだ」、と、そしてその気球が君とわたしというに流れ着いた。つまり二人はソウルメイトであり、二人二人である理由はそこにある、君がいないとわたしはわたしではないのだ、と。

 ここに残ってくれないか、と今度はマスターに尋ねられたフレディはこう言う。「来世では一番に君を見つけるよ」。

 宗教はきわめて個人的な体験にもとづいて、人と人を結びつける。だから他の人たちには彼らのあいだで起こっていることがどういうことなのか分からなくても当然だ。

 でも、この映画の二人、フレディマスターにとって、それは信じるに値する、最も切実な部分といえる。だからこそ、前世や来世というコーズの教義に興味がなかったフレディが、最後の最後に来世の話をしてみせる。

 映画『ザ・マスター』にはポール・トーマス・アンダーソン監督宗教観フレディという男を通してそのまま表現されている。そして、そんな彼に対しマスターは言うのだ、「来世では敵同士だぞ」、と。穏やかなフレディ

 そして彼は砂浜の女を眺めている。

*1:でも上の予告編にはその大事な部分が入ってない。ごめんなさい。

*2:たしか池が血に変わるんだったかな…。

*3:レディオヘッドのギターの人(あのミュートスイッチがんがん押す人)を音楽の担当にしてるから余計なのかもしれないけど、年齢的に言ってもビンゴだし、もう少し上だとアレハンドロ・イニャリトゥとかリチャード・リンクレーターとかにもそういうものを感じる。だからこの世代の中堅の映画監督がみんなそうなのかもしれないと思ったりもする。

*4:本当の意味はもう一つのとかそん感じ。